2 円照寺(えんしょうじ)の板碑(いたび)

 

ページ番号1002124  更新日 令和2年11月14日 印刷 

円照寺の板碑その1
円照寺の板碑

国指定 重要文化財(考古資料・昭和38年2月14日指定)
 元加治(もとかじ)駅のすぐ近くにある円照寺は、丹治(たんじ)姓の武蔵武士・丹党(たんとう)加治氏の菩提寺である。阿弥陀(あみだ)三尊を本尊とする真言宗の寺院で、康元元年(1256)に高野山(和歌山県)から丹党の氏神である丹生(にう)明神を勧請し一族の鎮守とした。
 板碑とは、中世に作られた石造の卒塔婆(そとば)で、板石塔婆(いたいしとうば)ともいう。石材は、緑泥石片岩(りょくでいせきへんがん)(通称・青石:あおいし)を用いている。円照寺では、鎌倉時代から戦国時代にかけての板碑を40基以上所蔵しており、そのうち6基(上写真)が国指定重要文化財となっている。鎌倉幕府の御家人であり、北条得宗家(とくそうけ)の御内人(みうちびと:直属の家臣)でもあった加治氏累代の歴史を知ることができる貴重な歴史資料であり、なかでも元弘(げんこう)3年銘と嘉元(かげん)3年銘の板碑は、鎌倉幕府の歴史を語る板碑として全国的に有名である。
<上写真右から>
(1)阿弥陀一尊種子(あみだいっそんしゅじ)板碑:建長6年(1254)5月16日銘。円照寺で最古の紀年銘を持つ板碑。
(2)阿弥陀一尊種子板碑:文永7年(1270)1月13日銘。丹治泰家の供養のため、丹治宗泰とその子が造立したもの。泰家は1256年に円照寺と来迎寺(所沢市山口)にも板碑を造立している。宗泰は高野山の表参道(町石道:ちょういしみち)に立つ町石(百五十二町石)を造立している。
(3)胎蔵界大日三尊(たいぞうかいだいにちさんぞん)種子板碑:元弘3年(1333)5月22日銘。銘の日付は鎌倉幕府が滅亡した日であり、人名の道峯禅門(どうほうぜんもん)は加治家貞の法名とされる。新田義貞の鎌倉攻めの際、家貞は幕府軍の副将を命じられ、5月11日に小手指ヶ原(所沢市)で新田軍と戦った(『太平記』では加治二郎左衛門入道の名で登場)。その後、鎌倉へ攻め入った新田軍により、得宗の北条高時はじめ北条氏一門は5月22日に鎌倉東勝寺で自害し幕府は滅亡。家貞も主君と運命を共にしたと考えられている。この板碑に刻まれた偈(げ)(漢詩)は、八代執権北条時宗が創建した鎌倉円覚寺(えんがくじ)の開山で中国南宋出身の禅僧・無学祖元(むがくそげん)が唱えた有名な『臨剣頌(りんけんしょう)』である。種子は密教の仏、偈は禅僧の語と、当時の上級武士に見られた禅密兼修の信仰形態を示す板碑である。
(4)阿弥陀一尊種子板碑:嘉元3年(1305)8月8日銘。得宗の北条貞時が企てたとされる幕府内の権力闘争・嘉元の乱(1305)で犠牲となった加治家景・光家親子を供養する板碑と推定される。この板碑には、鎌倉円覚寺の開山・無学祖元の語録と、禅問答のテキスト『碧巌録(へきがんろく)』から語句を引用して作詞した漢詩2編が刻まれており、家景・光家2名の遺偈(ゆいげ:臨終に際して詠む偈)と推定される。(3)の板碑と同様、加治氏一族の無学祖元に対するあつい尊崇を示す板碑である。
(5)種子不明板碑:文和3年(1354)8月15日銘。『太平記』で武蔵野合戦に登場する加治豊後守季貞が、母の逆修(ぎゃくしゅ=生前供養)のため造立した板碑。
(6)種子不明一尊板碑:応安元年(1368)9月5日銘。
(板碑は収蔵庫内に安置され通常非公開。元弘3年銘の板碑は実物大レプリカが入間市博物館に展示。)
 

円照寺の板碑その2
嘉元3年銘板碑(左)と元弘3年銘板碑(右)

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