旧石川組製糸西洋館の世界

更新日:2023年03月31日

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石川組製糸

村の煙突から煙が出ている古く色あせた写真

 石川組製糸は、石川幾太郎が明治26年(1893)に創始した製糸会社である。当初はわずか20釜の座繰製糸(手工業)でスタートしたが、明治27年にはいち早く蒸気力を利用した機械製糸に切り替え、日清・日露戦争の戦時景気に乗って瞬く間に経営規模を拡大した。
 最盛期には、現在の入間市にあった3工場をはじめ、狭山市や川越市、県外でも福島県・愛知県・三重県・福岡県に工場を持ち、大正11年度(1922)の生糸の出荷高では全国6位を記録するなど全国有数の製糸会社に成長した。なお、海外との取引が多かったことから、ニューヨーク五番街にも事務所を設置している。
 しかし、関東大震災による損失や昭和恐慌、それに生糸に代わる化学繊維(レーヨンなど)の出現などの影響により経営不振に陥り、昭和12年(1937)に解散した。

石川幾太郎

スーツに蝶ネクタイ姿の男性のモノクロの宣材写真

 石川幾太郎(1855年から1934年まで)は、黒須村(現在の入間市黒須)で石川金右衛門とだいの間に六男三女の長男として生まれた。
 明治12年(1879)には代々続いた茶園を継いで製茶仲買商となったが、その後茶業を辞めて製糸業に進出し、一代で石川組製糸を全国有数の会社にした。入間地方の経済の担い手として、一時は武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)の社長にも就任している。
 また、幾太郎は、弟の和助が熱心なキリスト教信者であったことから、この勧めでキリスト教に入信している。このことは石川家家憲や工場経営にも大きな影響を与えている。一般に製糸業では女工の過酷な労働が伝えられているが、石川組製糸では女工の積極的な教育に取り組むなど、慈愛に満ちた雇用形態を行っていた。

旧石川組製糸西洋館

赤レンガの外壁に緑屋根の西洋館の写真

 西洋館は、幾太郎が取引先のアメリカの貿易商を招くに当り、「豊岡をみくびられてはたまらない。超一流の館を造って迎えよう!」と決意し、大正10年(1921年)頃に建設した迎賓館である。
 設計は東京帝国大学(現在の東京大学)で西洋建築を学んだ室岡惣七(むろおかそうしち)が、建築は川越の宮大工関根平蔵(せきねへいぞう)がそれぞれ担当した。
 建物は洋風木造建築で、2階建ての本館に平屋建ての別館が接続している。外壁は、本館・別館ともにタイル調の化粧タイル貼だが、別館にはテラゾー(人工石)により柱や長押の和風の意匠が見られる。また、屋根も、本館はビップゲーブル(半切妻造)で洋瓦葺(創建時はスレート葺)、別館が寄棟造で桟瓦葺としている。外観は、本館と別館で統一を図りながらも、それぞれ洋館と和館のイメージを表現した造りになっている。
 館内は、戦後進駐軍に接収され改造を受けた箇所もあるが、全体的に当時の様子を良くとどめている。部屋ごとに特色のある天井の造形や床の寄木模様、照明器具、玄関ホールの大理石製の暖炉や一木で作られた階段の手すり、海外から取り寄せただろう特注の調度品等からは、当時の石川組製糸の繁栄の様子がうかがえる。
 現在は、国登録有形文化財(平成13年11月20日登録)になっている。

現在、3月から11月までの第2・第4土曜・日曜を中心に一般公開を行っています。
詳しい公開の日程は下記をご覧ください。

所在地:入間市河原町13-13
西武池袋線入間市駅北口から徒歩約7分

西洋館の情景

赤レンガの外壁の二階建ての西洋館の裏側の写真

西洋館外観:裏側

シャンデリアと赤い絨毯の敷かれた先に階段のある写真

本館1階:玄関ホール

天井から下げられた3つのランプのある部屋の中心に長いテーブルと椅子が置かれた写真

本館1階:食堂

白いカーテンと白を基調とした絨毯と茶色い家具で統一された部屋の写真

本館1階:応接室

白いカーテンと天井から下げられたランプのある開けた部屋の写真

本館1階:控えの間

白いカーテンの大きな窓と天井から下がるランプとベッドの置かれた部屋の写真

本館1階:客室

階段上のスペースに絨毯とソファーとシャンデリアのある写真

本館2階:ホール

白いカーテンの窓と赤い床の家具のない広い部屋の写真

本館2階:大広間

白いカーテンに机と和棚と畳の部屋の写真

本館2階:東・西和室

梅・蘭・竹・菊をモチーフにしたステンドグラスの写真

本館2階:大広間のステンドグラス

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