12 新井家文書付鑓(やり)一口

更新日:2023年03月31日

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文の終わりに四角い判子と署名が記されている古い文書の写真

永禄8年(1565)北条氏照印判状

署名と印の押された古い文書の写真

天正7年(1579)北条氏照印判状

市指定文化財(古文書・昭和47年10月20日)

 加治氏館跡(入間市野田)に居住していた新井家本家に伝わるこの文書は、滝山城(八王子市)の城主・北条氏照が、柏原鍛冶(かしわばらかじ)の新居(荒井)新左衛門尉(しんざえもんのじょう)に宛てて出した書状である。
 丑(永禄8)年(1565)4月28日付の書状(写真上)では、北条氏照が新居新左衛門尉に対して、棟別銭(むなべつせん:家屋の棟数別に賦課される税金)を免除する代わりに、1年に鑓20丁を上納するよう命じている。
 しかし、14年後の天正7年(1579)6月6日付の書状(写真下)では、鑓の上納は年30丁に増加しており、さらに「9年間も滞納しているので、滞納分270丁のうち半分の135丁を今年と来年の11月10日までに納めなさい」と命じている。
 小田原城(神奈川県)を本拠とした後北条氏の三代目・北条氏康は、関東各地に支城を築いて関東を支配した。加治氏の惣領(そうりょう=本家)は、永禄4年(1561)頃に後北条氏によって領地を没収され、氏康の三男・氏照の支配領域(滝山領)となった。
 柏原鍛冶は、柏原(狭山市)を拠点に、飯能・入間・狭山市にかけての入間川左岸一帯の加治郷に散在する鍛冶集団である。なかでも、新井家は加治氏の鉄器生産を支えた技術集団で、加治氏館内に居住し、領主と行動を共にする半鍛半士(はんたんはんし)の武蔵鍛冶だったと推測されている。新井家は、加治惣領が滅ぼされた後も、主なき館跡に住み続け、柏原鍛冶集団を統率する立場だったと推定されている。氏照は、加治氏が有していた武器生産能力を支配下に置こうとして、税金を免除する代わりに武器の物納を命じたが、地元の鍛冶職人は新たな領主の命令になかなか従わなかったものと思われる。氏照は、9年間にもわたって滞納を続ける新井氏らに対し、未納分の半納を命じざるを得なかったのである。
 付(つけたり)の鑓は、新井家に伝わるもので、長さ72センチメートル(刃長33.9センチメートル)、「武州下原住照重」の銘がある。下原(したはら)鍛冶は東京都八王子市内に散在する山本姓を名乗る刀鍛冶の総称で、滝山領が北条氏照の支配地となるとその配下に属した。「照重」は下原鍛冶の世襲名のひとつで、氏照から「照」の字を賜ったとされる。

鑓の茎に刻まれている銘部分の写真と、茶色く錆びたまっすぐな鑓の穂先から茎尻まで全体を写したの写真の2枚組の画像

鑓 銘 武州下原住照重(長さ72.0センチメートル)

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