25 高正寺の板碑

更新日:2023年03月31日

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高さの違う5種の石造が横一列に並び、隣に説明看板が貼られている写真

市指定文化財(考古資料・昭和56年4月20日)

写真右から

  1. 釈迦一尊種子(しゃかいっそんしゅじ)板碑:観応2年(1351)1月24日銘
  2. 阿弥陀三尊(あみださんぞん)種子板碑:(注釈)寛元4年(1246)1月20日銘と推定。
  3. 釈迦三尊種子板碑:宝徳4年(1452)4月24日銘
  4. 阿弥陀三尊種子板碑:建長2年(1250)7月29日銘
  5. 阿弥陀三尊種子板碑:文永5年(1268)12月6日銘

 加治丘陵の北麓に位置する仏子地区は、村山党(平姓)金子氏一族の領地で、金子十郎家忠の弟・親範(ちかのり:近範とも書く)が館を構えたとされる。高正寺は、親範により開創されたとされ、当初は金子坂(加治丘陵を南北に横断する峠道)の山中(武蔵野音大入口付近)にあったとされ、のちに現在地へ移転したとされる。
 境内には、5基の板碑が並んでいる。板碑とは、中世に作られた石造の卒塔婆(そとば)で、板石塔婆(いたいしとうば)ともいう。石材は、緑泥石片岩(りょくでいせきへんがん)(通称・青石:あおいし)を用いている。建長2年(1250)銘と文永5年(1268)銘の板碑は、もとは金子坂の入口付近で大沢川に面した地点にあったとされる。また高さ207センチメートルで市内最大の板碑は、碑面の下部が剥落して年代が不明だったが、江戸時代に萩(山口県萩市)に移り住んだ金子家が所蔵していた延享2年(1745)の文書(金子家文書)に、剥落前の銘文が記されており、寛元4年(1246)の造立であったことが明らかになった。これにより、この板碑は市内最古の板碑であることが判明した。建長2年銘と寛元4年推定の2基は、村山党系の板碑に独特な阿弥陀種子(あみだしゅじ)の型式を持ち、入間川を挟んだ丹党加治氏の板碑群とは趣を異にしている。

細長い石碑の写真と紙にかかれた石碑の図が2つづつ並んでいる2枚組の画像

建長2年銘板碑(左)と寛元4年銘推定板碑(右)

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