71 久保稲荷神社(くぼいなりじんじゃ)の狐塚(きつねづか)及び手水鉢(ちょうずばち)

更新日:2023年03月31日

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大木と「狐塚」と書かれた石碑と狐の石像に紙垂が付いた写真
木と石碑と紙垂と「きけん」と書かれた看板と複数の小さな狐の置物の写真
表面に大きなひび割れがある「清香水」の銘が刻まれた手水鉢の写真

市指定有形民俗文化財(平成28年6月1日) 入間市久保稲荷四丁目3-23 (久保稲荷神社)

 久保稲荷神社は、創建にあたり桜のある場所に二匹の白狐が現れて伏見稲荷大社(京都府)から分霊を迎えたという口伝があり、そこから桜の木を「白狐の桜」と名付け、神木として崇めてきた。また、古くから信仰が盛んで、近郷近在だけでなく江戸にも信者が広がり、これらの信者の中から狐塚と手水鉢が奉納された。
 狐塚は、二の鳥居の柱の左右2箇所に、溶岩によって2メートル余りの高さで築かれている。拝殿に向かって右側の塚の上に、体長115センチメートルと30センチメートルほどの親子の狐像が置かれている。子の狐像は、後代のものである。左側の塚の上には、左足と尾が欠損した体長85センチメートルほどの狐像が置かれている。この塚は、登り口が設けられて富士塚の形姿をもっている。かつて頂上からは西側の展望も開けて富士山も望見できたと伝わる。
 塚は、天保13年(1842)初秋に、入間川村(現狭山市)下倉屋卯八、扇町屋村(現入間市)の肴屋三右衛門、坂本喜左衛門、上倉惣八が世話人となり、扇町屋村、糀谷村(現所沢市)、堀兼村(現狭山市)、浅草新寺町(現東京都台東区)、神田元岩井町(現東京都千代田区)、四ツ谷塩町(現東京都新宿区)、飯能村(現飯能市)などの人々102人によって奉納されたものである。巣鴨(現東京都豊島区)の植木屋仙太郎によって築山され、新川(現東京都江戸川区か)の石屋勘兵衛によって狐像が彫られた。塚の上の奉納碑の書は幕末の三筆の一人である巻菱湖(まきりょうこ)によって、奉納者名を刻んだ碑の書は春斎(しゅんさい)によって書かれ、これらの碑文は扇町屋村の石工安藤茂兵衛(もへえ)によって彫られたものである。
 手水鉢は、正面には「清香水」の銘が刻まれ、天保13年に、かめや甚右衛門、しなのや与八、上倉や文蔵、八文字屋清左衛門、むさしや武兵衛が世話人となって、扇町屋村の商人の仲間が奉納したものである。文字は江戸時代後期の能書家として知られる松本盛義により書かれ、石工の安藤義(よし)真(まさ)(安藤茂兵衛)によって彫られたものである。
 安藤茂兵衛は地元扇町屋村の石工で、現入間市域を中心に活躍し、自らの名を刻んだ石造物も10基を超える。茂兵衛の字彫には、書家の原書の筆致を彷彿させる巧みさがあり、狐塚の奉納碑や手水鉢には、その卓越した技を見ることができる。
 久保稲荷神社の狐塚と手水鉢は、様々な地区から多くの人々によって奉納されたものであり、久保稲荷神社の江戸時代後期の信仰者の範囲や信仰の様子を伝えるものとして貴重な資料である。

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