8 重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)及び茶場後碑(ちゃじょうこうひ)

更新日:2023年03月31日

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林の中に置かれた2つの文字の書かれた石碑の写真

重闢茶場碑(左)と茶場後碑(右)

市指定文化財(史跡)

 指定「重闢茶場碑」 昭和42年5月6日
 追加指定及び名称変更「重闢茶場碑及び茶場後碑」 平成26年6月1日
 狭山丘陵の北麓にある出雲祝(いずもいわい)神社の境内奥に、狭山茶の「誕生」と「発展」の歴史を象徴する記念碑が2基並んで立っている。碑文の内容の歴史資料的価値に加え、両碑とも、当代一流の学者、書家、字彫職人が製作に当っており、石碑そのものの美術工芸的な価値も高い。

「重闢茶場碑」と書かれた石碑の写真と「重闢茶場碑」と書かれた石碑を写した拓本の二枚一組の写真

重闢茶場碑(写真・拓本)

 向かって左側に立つ「重闢茶場碑」は、文政2年間(1819)に、地元の吉川温恭(よしずみ)と村野盛政(もりまさ)が、関東以北で初めて本格的な蒸し製煎茶の量産に成功し、山本山をはじめとする江戸の茶問屋たちと初取引を開始してから約10年後の天保3年(1832)に建碑したものである。碑文には、「州の北、河越の野に狭山あり。多磨(たま)・入間二郡に跨(また)がり、古(いにしえ)名茶を出す。(中略)文政中に逮(およ)んで、郷(ごう)の著姓村野氏盛政、吉川氏温恭、江戸山本氏徳潤(とくじゅん)と胥議(あいはか)り、重ねて場を狭山の麓に闢(ひら)き、以て数百年の廃を興さんと欲す。(後略)」とあり、河越茶以降、数百年間廃れていた茶作りを、ここ狭山丘陵の麓で復興したことを記している。題額の「重ねて闢く」とは、一度閉じられた茶作りの扉を再び開く(再開する)ことを意味しており、現在の地域ブランド銘「狭山茶」の名称も、この地に由来する。
 狭山丘陵の麓に広がる村々を見晴らす高台に立つこの石碑の最後には、「その子孫たる者の人力を以てこれを保つに在るや。姑(しばら)く歳月を識(しる)して以て竢(ま)つ」(子孫たちが努力して茶作りを保っていけるか、ここからそっと見ています)とあり、再開した茶どころの未来を励まし見守っているかのようである。
 題額は松平定常の筆、碑文は林韑(あきら)の撰文、巻大任(まきたいにん)の筆、字彫は窪世昌(くぼせいしょう)の刻。

「茶場後碑」と書かれた石碑の写真と「茶場後碑」と書かれた石碑の拓本の二枚一組の写真

茶場後碑(写真・拓本)

 向かって右側に立つ「茶場後碑」は、明治9年(1876)に建てられたもので、碑文の冒頭に「重建狭山茶場碑」と刻まれているとおり、並んで建っている「重闢茶場碑」の内容を継承しながら、その後の狭山茶業の発展が記されている。狭山茶のアメリカへの輸出が最盛期を迎えていた時期に建てられたもので、碑文には「(前略)宇治の製のごとくは、昔独り美(うまし)を邦内(ほうない)に擅(ほしいまま)にして今則(すなわ)ち、欧亜(おうあ)に著称(ちょしょう)せられる。而(しこう)して、狭山の茶は後より起って雄を争い、洋賈(ようか)の東に旅する者は、其(その)記号にあらざれば顧(かえ)りみざるに至る。(後略)」とあり、狭山茶が宇治茶と雌雄を争うようになり、西洋から買い付けに来る人は狭山茶でない茶には見向きもしない、と記している。宇治茶と狭山茶を対比させながら、日本茶の海外輸出の開始と宇治・狭山茶の評判、先人達の功績に対する顕彰などを記している。
 題額と碑文は萩原秋巌(はぎわらしゅうがん)の筆、撰文は中村正直、字彫は廣瀬群鶴(ひろせぐんかく)の刻。

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